結婚することも育休をとることも夢にも思わなかったあの頃

大学時代に書いていたブログ記事をリマスター及び考察しながら載せていこうと思います。恥ずかしい思い出や今より稚拙な表現等ございますが、ご容赦ください。

親しい人へメールを送れますか?

2005.4.5(火) 大学3年生

 

 

本編

 

親しい人に会って話す時間が与えられると言うことはとても素晴らしいことです。親しい人になら自分を表現することができるし、暗喩を使ったアンチテーゼを唱えたり、希望に満ちた空想を話す機会が与えられます。

 

さらに、人と人との駆け引きはまた「いとおしきもの」であり、その産物として「会話」が生まれるのです。表情、目線、仕種やしゃべり方の癖でその人のペースやベースが見えてきます。それにあわせて自己表現の手法を変えることは、自分を独りよがりにさせないためのものであるでしょう。

 

現代社会においては情報伝達技術の発達により、実際に会わなくてもその人に用を伝えられるようになりました。その中で大躍進を遂げたのがメールです。これによって、僕らの生活のレールがどのように変わっていったか、それは自らが体験しているのでわかっているとは思います。

 

メールは合理性を追求した上で生まれました。簡単にごく短時間で人から人へ情報を伝えることが可能になりました。また、文字で送られるので、会話によっておこる「聞き違い」が起こらなくなりました。「パソコンから携帯へ、安価に、手軽に、瞬時に」最も身近なITはこの10年間で急激な進歩を遂げました。

 

しかし、それにより僕らは個性を失ったと言っても良いでしょう。また、相手に物事を伝える能力も衰えました。「話しことば」と「書きことば」は違うことがなぜわからない?周りの人にそう問いたい衝動にかられるのは僕だけでしょうか?それだけでは物事は伝わらない、そのように気づかないから人間関係は希薄になり、無意味な諦め(どうせわかってくれない)をするのではないでしょうか、自分自身の情報伝達能力を「鍛える」場が不足しているのです。だいたいがメールで事足りるようになってしまったのですから。

 

では「個性」とはなんでしょうか。万人の言う「個性」と僕が感じる「個性」は、かけ離れた物に感じます。

 

僕の感じる「個性」とは「集団の中にあってもじっとしていられずに、あらわれてくるもの。光ははなたなくとも見えてくるもの」だと思います。同じ服装をしていても(学生で言えば制服)、現れずにはいられないもの。それが個性です。

 

「個のたち」という意味がその漢字にはあります。「個性」の尊重、それは「個の性質を尊重する」ということです。

 

しかし一般に思われている「個性」とは人と違った服装をする(制服+自分がカッコいいと思うものをミックス、ピアス、染髪)ことではないでしょうか。残念なことに、大半の教師はこのことが「個性」だと思っており(「そんなもの個性とはみなさない!」と言っている教師はわかってるのか?いやいや、その教師にじゃあ個性ってなんですか?とたずねると、口ごもりますよ。教育指針をたててもわかっていない教師がほとんどです。)容認することがほとんどです。

 

僕に言わせてみれば、それは「個性」でもなんでもなくただの飾りつけ、かっこつけ、あとづけにすぎません(否定をしているわけじゃないんです「個性」とみなせないと言っているだけです」。そこには現代社会が生み出した「価値判断」によって判定が下されるだけです。つまり、「センス」ではなく模倣をして「個性」と思っているものを見せているだけにすぎないのです。なにかについて語るなら、まずそれについてずっと考えていなくてはならないのですから、「個性」の意味をとらえずして、鵜呑みに捉えてしまうのです。「既成の価値」が成り立ってしまっているから。

 

考察

最早、読みたくもない(笑)

 

現在はメールというか、「返信」というものが苦手です。勝手にコメントをぶん投げるのは楽なんだけど、それに対する相手の返信を汲んで答えるという行為が性に合ってないのだと思うんです。

 

勘違いしないでいただきたいのは、「嬉しい」という感情はあるということ。ただ、それに対しての反応をどう表現したらいいのかが分からないんですよね、未だに。