結婚することも育休をとることも夢にも思わなかったあの頃

大学時代に書いていたブログ記事をリマスター及び考察しながら載せていこうと思います。恥ずかしい思い出や今より稚拙な表現等ございますが、ご容赦ください。

思うと想う 「こころ」を読んで

書評日:2005.2.7(月) 大学2年生

 

 

こころ

思うと、想うって小学校で習う漢字ですよね。で、だいたいこの二つの漢字の使い方って迷うわけじゃないですか、覚えたてだと。で、大体文章書きまくったり、読みまくったりして、同じ読み方の漢字の使い分けを習得していくわけじゃないですか。

 

でもこの二つの漢字って、結構いいかげんに使われてるきがしません?記事やページめぐりをしていると、何でも「想う」を使ってる人が結構いるわけですよ、僕も漢字をすべて把握しているわけじゃないんで、えらそうなことはいえないんですが…。

 

で、「こころ」。これを読むとなんとなく「想う」と「思う」に触れられるものと思います。というか、これで僕は微妙なニュアンスの差異に気づきました。

 

このお話は「恋は罪悪ですよ、そして神聖なものです。」とか「精神的に向上心のないものはばかだ」という文学のにおいをぷんぷんさせる話(そりゃ文学なんですが)なので、読みにくい人は読みにくいんですが、読みやすい人は読みやすいという(そりゃそうなんですが)。とにかく、名文がたくさんある話しなわけで、話しもすごい面白いっていう。

 

これは、想いと思い込みと、思いが詰まってると思うんですよね、登場人物の。ローマ字にすると「omoi」が4つもでてきて、外国人からしたらこれはなんだと。それが日本語の奥ゆかしさというか、風情があるというか、悪く言えばあいまいなところであるんですが。

 

で、このお話しを英文で訳すとすると、読者は全然違った捕らえ方をしてしまうのではないかと思います。でもその逆もありで多分日本語だけでも見えてこないとは思うんですよね。ほら、英文和訳とかで日本語が意味不明になるって言う。それがニュアンスって言うやつでありまして、言葉のややこしさはここからくると思うんですが。

 

漱石自身、留学の経験があって、まあ、英文の文献とか読める人であったと、読む人であったので、そこの言語同士のニュアンスの部分、すなわち隙間の部分がある程度手にとるようにわかってる領域にはいっていたはずです。で、この、こころはその隙間を見ながら書いた作品ではと僕は思うんです。日本人の読者に読ませるんだけど、真にすべて思うとおりに読んでくれる人は、読めるやつはいまいと思って書いてるはずです。じゃないと、作者としては面白味にかけるじゃないですか、しかも後期の作品は難解で、日本語だって解読できないって言うぐらいのものなので、これはちょっとひねりましたね漱石さんっていう。

 

で、話しを元に戻すと、こころをよんだら思うと想うのニュアンスが見えてきたってわけで、それ以外は何もないんですが。で、ほかの外国語との比較もなかなか面白いかもと。「自分の国の言葉を知るためには他の国の言葉を知らなくてはいけない。」っていう有名な言葉があるとおり、言葉巡りはニュアンス探しの旅なわけです。

 

思うと想うの違いについてはひとつは言葉で表せないものと、表せるもの。その他はいいません。もったいないもの(笑)。ちゃんと把握できてないもの(散々引っ張ってそりゃないだろうとおもうものの)。

 

あ、でも田中和将氏なら把握してる。「想うということ」って歌作ってるものね。

 

考察

昔のブログで一番最初に書いた記事です。大学生時代は夏目漱石とか太宰治とか昔の文豪の本を読んでおりました。ページを捲るペースも遅いので、読み漁っていたほど広くはなく、人よりは多めに読んでいたぐらいでしたが。

 

そんな似非文学青年の頭でっかち感がプンプンする書評ですね。

 

ただ、こうやって下手くそなりにも書評を書いていくと、小中学生の時に夏休みの宿題で出た「読書感想文」をもっとうまく書けたのではないか?という思いが大きくなってきたことを覚えています。

 

当時の読書感想文は、あらすじを書いて「カッコいいと思った」「可哀そうだと思った」と加えていくだけという悲しいものだったので…。別のアプローチから書いた方が楽しいし納得がいくものができたのではないかと。