結婚することも育休をとることも夢にも思わなかったあの頃

大学時代に書いていたブログ記事をリマスター及び考察しながら載せていこうと思います。恥ずかしい思い出や今より稚拙な表現等ございますが、ご容赦ください。

「日本が負けたのに悔しくないのか」と暴行。読売新聞の記事より。

2006.6.13(火)

 

 

新聞記事

 

観戦後、若者ら約10人殴り合い…山梨・韮崎PV会場 13日午前0時ごろ、W杯・日豪戦を大型画面で生中継した山梨県韮崎市のパブリックビューイング(PV)会場で、観戦を終えた若者ら10人前後が殴り合いとなる騒ぎがあり、数人が打撲などの軽傷を負った。韮崎署は暴行事件として、若者らから事情を聞いている。

 調べによると、PV会場の同市本町の市営総合運動場体育館付近で、20~30歳代の若者数人が、別の若者グループに「日本が負けたのに悔しくないのか」などと因縁を付け、殴り合いになったという。110番通報で駆け付けた署員が制止した。

 韮崎市は、日本代表の中田英寿選手の母校、韮崎高校があり、PVは市と住民有志が主催した。

 

(読売新聞より引用)

 

よっぽど癪にさわるやつだったのか、よっぽど殴った方が自制がきかないやつだったのか真相は分かりませんが、殴った方が罰せられる社会です。

 

私の思い出 

思い出したのは、小6の最後の野球の試合。

 

僕の小学校の野球部はその年のほとんどの地区大会に優勝した、地区強豪チームだったのですが、この最後の大会はなんと一回戦で敗退してしまったのです。

 

試合終了後、当然のごとく重苦しい空気が漂っておりました。僕はその日好調で、ヒットを量産して活躍?したのですが、好機に一打が出ず、本当に悔しい思いでいっぱいでした。

 

あの時、ピッチャーに声をかけていれば…あの時、もうちょっと打球が伸びなければ…

などなど頭の中を駆けめぐるもしもストーリー…。

 

それでも、暗い表情のままでいるのも父兄の方や、4、5年生にも悪いなぁという気持ちがあり、努めて明るい表情でいたのです。

 

そうこうしてバットを片づけていたとき、キャッチャーをやっていた友達に「てめーは負けて悔しくないのかよ!!」と怒鳴らました。

 

「そりゃ負けて悔しくない奴なんていないだろ?」と言い返したのですが、「だったらへらへらしてるんじゃねーよ!!」と、また怒鳴られました。

 

悔しいのはこっちもなのに…。。彼には僕が自分のミスで負けたわけではないからと、へらへらしていると思ったのでしょう。

 

その日、彼はノーヒットでキャッチミスでランナーを進めてしまったりミスを連発し、いいところなしでした。

 

「自分のせいで負けた」とイライラしているところに好調でへらへらしている奴がいたら、怒りをぶつけたくなるに違いありません。

 

普段でさえ、人の内心はさっぱりといってもいいほど分からないのに、イライラしているときですもの、そりゃあ僕の気持ちなんて分かりませんよ。

 

後々まで、悪いことをしたなぁと落ち込んでました。

 

それ以来、自分のチームが負けたときや一緒に応援しているチームが負けたとき用に、まわりに不快な思いを与えないように、悲しい表情づくりに励んだものです。

 

 でも、「悔しい」という感情は人に求めるものではないと思います。この感情は内々からひしひしと出てしまうものだと思うのです。

考察

他人に何かの感情を強要すること自体が「おこがましい」ことなのだと思います。強要される必要は無いし、自分の思った通りに考えて沸き上がった感情を処理すればいい。

 

私が社会人になりたての頃(まさにこの本編の記事を書いていた頃)、「空気を読む」ことが社会人としてやっていくうえで一番重要な要素のように取り上げあられていた印象があります。私もそうだと思っていて、そうすることが割と得意だった私は「時代に合わせられる!」と謎の矜持を持っていたものです。

 

今では「それは違う」と思っています。本質的なことを考えたうえで、場の流れが間違っているのだったら、空気を読まずに主張すべきだと。それは自己防衛でもあり、全体を良い方向に導くのだと。

 

相手に嫌がられてもいいから、「空気を読まず」に言語化して「あいまいな」部分を詳らかにしていくことの大切さはいくつかの仕事での失敗から学びました。そしてそれで満足するのではなく、同じ言葉や同じ文章でも、読み手や受けてによって幾通りもの解釈が存在するのだから、そのすり合わせが大切なのだと。

 

今は他人の感情に沿うのではなく、本質的な事を見極めたうえで、然るべき行動をとることを第一に考えて生活しています。