2005.9.9(金) 大学3年生
考えれば考えるほど不安になり、学べば学ぶほど不安になり、しかしほとんど何もしていない自分に愕然とし、時間ばかりは過ぎていく。
※無茶苦茶長い青いものなので、目次から考察まで飛んでしまってください
心情吐露
記念すべき100記事目がこんな心情を吐露したものになるとは…。
まぁ、これからはじまる教育実習に就活に、ゴロゴロゴロゴロ、無駄に大学生活を過ごしてきた駄目大学生の典型的な悩みなんですが。
でも、自分が変われるチャンスなんですよね。打たれ強くなる。上手く話せるようになる。失敗する経験ができる。つくりあげることができる。
でも、やっぱり恐いです。誰が何と言おうと恐いんです。
教育実習の不安
教師は弱みを見せちゃ、なめられちゃうんです。僕は弱弱なんです。せいぜい勝てるものと言ったらビートルズ談義やら、バイン談義やらじゃない。あとは、何に自信を持てるんだ?
なら、ちゃんと準備しておけば良かっただろ~。承知していたんです。ちゃんと準備しようとしたんです。でもね、思うようにはかどらないんだね、これが。今までの体質から変わろうとしてるんだけど、人って1、2ヶ月頑張ったところでそれまで築きあげてきた自分がそう簡単に変わるもんじゃない。
もちろん、変わりたい意志はある。でも、変化を取り入れて、それに違和感を感じる自分がいる。それが徐々に薄れていっていると信じたいが効果は早くて3ヶ月経たないとわからない。でしょ?
新聞だって、ある日いきなり読んだって頭にすんなり入ってこない。縦軸が分かってないから、その記事だけ見たって理解に到達できない。だから3ヶ月は読み続けないと、読んでるって言わないんだと思います。
自分の意見を出せっていわれたって継続して読んでなきゃ、そこからのみの知識だから、納得にしかならない。つまり、自分の意見を形成するに至るキーが足りないんですね。
継続は力なり。侮るな
こだわりとは
ここで記事を分けたっていいんですが、100記事目なんで(こだわるのね)。
こだわりがある人は新しくはじめることに上達が遅いとか言われます。僕は何にもこだわってるつもりはないんですが、上達が遅い。ただし、その後、覚えてからは機転がきいてくる人間だと思うんですよ。応用にしたって、ワイドに見えますし。基礎だってしっかり増強。向上心もアリ
オールドエコノミーシステム下だと活きる人間だとは思うんですけど即戦力を欲するニューエコノミーシステム下だと、初期能力が低いがために場すら与えられない。即ち、ネコ以下の存在なわけです。
知らず知らずにこだわってるんでしょうね、何かに。それを個性と呼ぶか頑固というか、呼称選択は僕ではなく、見る相手に委ねられてる。
僕は選ばれる時代の選ばれにくい人間です。まさに使い捨て労働力にうってつけです。
自分でそう言うことで人に言われたときの痛みを軽減してんだろ?
はい、そうです。だから皆遠慮するんですよ、謙遜するんですよ。人に言われたときのダメージって自分で気づいていても「かなり痛い」。
傷つくのがこわい
だから、自分で言っちゃうんですよ、人に言わせないために。分かってんなら言わないけどって言う気になるでしょ。逃げてるんだよ。つまりは、「自己防衛機能が働いてるんだ」って。
あと、自分の意見を柔らかくするために、「だそうです」「だって」「と自分は思う」「のようです」と、つけたりすること。僕の場合は逃げてるから使うんです。
だって、自分の意見否定されるの恐いでしょ?違うなって思ってても、いわれるの恐いでしょ?自分を否定されるみたいでしょ?だから、わざと自分の意見をぼやかすような使い方をするんですよ。
色々な意見をとり入れたいと思っていつつも、自分を否定されるのが恐いから拒んでるんじゃないの?そういう矛盾が生じるんだよね。
だって、多角的な視点を得るにはブレイクスルーもしくはクラッシュされなくてはいけないんですから。散らばった破片を集める過程を通して新しい位置を発見するんでしょ?客観視してたっていつになっても様々な視点を獲得できるわけないじゃない。一部から、みてるのに。色々なところを見ただけなのに。勘違いしてるだけだ。
人は悩んでるときほど何かを言いたくなったり、思案したりするけれども、それはそうすることによって今の状況が悩んでいると認識づけるためのものでもあり、脳が腐らないように働かせるためだ。
特に意味はない
あ、勘違いしないでください。皆さんを引き離すために書いてるわけじゃないです。皆さんに「だいじょうぶ?」って言って欲しいわけで書いたのでも「頑張れ」って言われたくて書いたのでもないんです。
その言葉によってプレッシャーをうけるからじゃないですよ。その言葉によって元気づけられるタイプですよ。
でもね、このように悩めることが人間としての幸せなのではないかと思ったんですよ。だから悩むことの在りかたについて考えてみたかったわけです。
そりゃ苦しいです。そりゃ逃げたいです。できることなら楽して暮らしたいですよ。だけど逃げられないんですよ。逃げたくたって逃げられないんですよ。
それはあきらめじゃなくて覚悟
その先に何か得るものがあるから立ち向かうんです。
前時代はよかったなあ
オールドエコノミー世代の人は、働けば働くほど暮らしがよりよいものになると信じてせっせと働いて、それを糧にまた働くことができて、それに伴い豊かな生活が実現可能だったから、仕事にも精がでて将来のことについて真剣に考えられたんです。
でも、今は将来がどうなるんだか全く予測がつかないリスクフルな社会なんです。極端に言えば、明日どうなるか必ずしも予測がつかないような社会なんです。働いたって、私たちの生活はよりよいものに確実になりますか?
明るい未来が見れますか?ほとんどの人が将来に不安を抱いているこの社会。勝ち組の、裕福さを見て羨んで「どう頑張ったってああはなれないだろう」と感じてしまうわけです。だから労働意欲が低下するわけです。頑張ったってギャップが埋まらないんですもの。
その先にあるものを手に入れるために立ち向かうことができるならいいんだけど、がんばった先にあるものそれは、もはや経済的豊かさじゃないのです。無責任な言い方ですが人それぞれそれを見つけなくてはいけないのです。
おわりに
締めようとして発展しました(汗)泣こうがわめこうが明日はやってくるんです。堂々と構えることができなくても堂々と構えていても、自分で分かってたって打ちのめされるんです。
それにすべての焦点を集めてるわけではないですけど。
考察
超めんどくせーーーー!!!!
私が学生のころから先が見通せない社会になるってわかってたのに、最近になって初めて分かったかのように老後に〇千万円必要!みたいなので騒いでるのってなんなんでしょうね。裏で全然関係のない「何か」を隠しているのではないかと勘繰ってしまいます。