2007.8.13 大学4年生
ゲームは楽しい。楽しいのだがやりすぎると罪悪感を感じてしまうから、やりすぎない程度に楽しめればいいと思っている。
テレビゲーム
2020年現在では、子どもがいることもあってゲームをする時間は大分短くなりました。たまーに、子どもが寝た後に夫婦でサクッとできるゲームをプレイするぐらいです。
独身社会人時代は人生で一番ゲームで遊んだ時期だと思います。DS、PSP、PS3、PS4、PS Vita、3DSとゲーム機を買い揃え(一番遊んだのはPS3だと思う)、平日は帰宅するとすぐに、休日は朝起きると同時にゲーム機の電源を入れていました。
結婚して子どもが生まれる前は夫婦でそれなりにゲームをしていた気がします。ただ、の頃よりはのめりこみ方と言うか、遊び方が全然違う気がしました。
出会い
私が初めてテレビゲームと出会ったのは、小学校1年生か2年生の時のことでした。テストでいい点をとったからという理由だった気がします。
学校から帰ってランドセルをおいて、明日の準備して…と普段通りのことをしていたら、母親が優しい声で呼ぶので美味しいおやつがあるのかと思って居間に行くと、スーパーファミコンを準備して待っていたのでした。
あの時の嬉しさと言ったら…。それを表す言葉は見つかりませんでした。別段、欲しいとは思ってなかったですし、テストでいい点を取ったから…みたいなおねだりもしていなかったので、驚きでした。
親に何かを買ってもらったら親を喜ばせなくてはいけないと常日頃から思っていた僕は、その時にできる最大限の喜びを表した気がします。
すると、母親はこの上なく嬉しそうな顔をするので、そこではじめてこのスーパーファミコンはとても素敵なものだと感じるようになりました。そして当然のごとく、ハマっていったのです。毎日学校から帰るとそれで遊んでいました。
ゲームをする時間は一日1時間までと定められていました。また、宿題があった場合は宿題が終わってから、そして次の日の学校の準備が出来てから、部屋が汚くなったら取り上げる…というルールもありました。
スーパーファミコンはとにかく楽しかったです。学校から帰るとすぐにやりたくて宿題があっても「ない」と嘘を付いてやっていたときもあったし(もちろん、後でバレて怒られたこともある)、親が買い物に出掛けて留守番をしていたときなど、1時間を超えて遊んでいたこともありました。
部屋が汚くなってルール違反で取り上げられたときも、親がいないときに場所を探し出してこっそりと遊んでいることもありました。その当時は社宅の4階に住んでいたので、親の車の音がしたら、急いで元の場所に元の形で戻す…という知恵もつけていました。
しっかりとルールを守って遊んでいても、親の目の前でゲームをしていると、あまり気分がいいものではありませんでした。親が自ら与えたゲームに嫉妬しているように感じたからです。
ゲームをしている途中で親に話しかけられたり、用事を頼まれたりしたときは、生返事をしたり、終わってからやると断ったり…などなど親からすれば冷たい態度を取っているように思われたからのような気がします。
加えて、ゲーム画面を見る息子の顔は楽しそうであるけれど、表情は死んでいるように見えたのではないか…と今となっては思います。申し訳ないという気持ちはありましたが、ゲームには途中で止められない魔力があったのです。
ゲームは楽しい。でも、親の機嫌は損ねたくない。後ろめたい中でやるゲームは後味が悪い。では、どうすればいいのか?当時の足りない頭で僕は考えました。
楽しく遊ぶために
ゲームはいつでもできる。 親の頼みはそのときに一番必要。ゲームは楽しいからやりたい。 でも、親の機嫌は損ねたくない。であるならば、「ゲームはつまらない。」と思えばいい。思い込んでしまえばいいと考えました。
当時小学生だった僕には小遣いというものはなく、 誕生日かクリスマスにしか欲しいものを手に入れる機会がありませんでした。その間に欲しいソフトができてしまったら、それはつまらないと思おうと努力して諦めていたのです。
あのゲームは同じ事の繰り返しで成り立っていて…とか、あのゲームは登場するキャラクターが違うだけで持ってるあのゲームと同じだ…と考えることで欲しい気持ちを抑えていたのです。
ゲーム自体にもこの方法が応用できると考え、親の機嫌が悪いときには極力ゲームを我慢することと、ゲーム中に親に話しかけられたら、そっちを優先することを心がけるようになりました。
勿論、小学生でしたから、時折心がけを忘れて親の機嫌を損ねてしまうこともありましたが、概ね対応することができました。
悪く言えば人の顔色を伺いながら行動する子供 に育ったしまいましたが、きまぐれに怒る父親を相手にするのだから、ゲームがなくてもそうならざるを得なかったとも思います。
今でもゲームは好きですが、「何よりも優先してゲーム!」という気持ちはなくて、「面白そうだからやってみよう。ああ、なるほど。」程度の興味関心です。他のことを忘れて夢中になるほど面白いゲームがないというのもありますが、ゲームにどっぷりハマっても得るものが少ないというようにも思えてしまうのです。
これまで使われてきたものの繰り返しで、わかりきってしまっているのです。それを繰り返しているだけで、ひも解いてしまうと単調(新しい技を覚えただの、新しい武器が手に入っただのの繰り返し)なのです。
この時ゲームを「つまらない」と思い込むようにしてから、「単調だ」と思う思考回路が出来てしまっていて、イマイチ、ハマれないのです。これは悲しいことなのでしょうか。
少なくとも、僕にとっては良いことだと思っています。
ゲームとは
ゲームは人が作ったものです。それに熱中するということはひたすらに人の作ったレールの上を歩いていくことになるといっては過言がありますが、その人の掌の上で踊らされているようなものではないでしょうか。
ですから、一歩距離を置いて楽しむ分にはいいと思うのです。掌で踊らされていることを良しとしたうえで、「ああ、こういう発想があるのだな」と吸収できるような視点があれば。
しかし、熱中しすぎてしまうと周りが見えなくなり、どっぷりと人の作ったものに浸かることになります。他のことをする時間も削られてしまいます。これは良くない。
クリエイティブじゃない。
人の作ったモノの中でひたすら遊んでいると、自ら創作したり思考したりする時間がどんどん削られていってしまいます。
さらには人と触れあう機会も減ります。コミュニケーション能力が低下していってしまうのです。
ゲームは元から記憶されたレスポンスを返します。続ける内に分かり切ってしまうから、時間をかければかけるほど、意のままに動くようになっていきます。そこにアウトプットする余地はないのです。
対して実在の人はそのようにはいきません。
同じ言葉だってほんの少しニュアンスが違ったり、場面が違ったりすると与える印象が変わってしまいます。
なにより、「その時」はその時限りなのである。2007年の8月14日の○○時に誰かと会って何かの話をするのはその時限りなのです。
また、その時話す話が昨日であるか、今日であるかまたは明日であるかによっても、違う印象を与えるでしょう。ゲームの中のNPCは昨日であろうが今日であろうが明日であろうが変わることはありません。
ゲームはこの時にこうすればこうなる。というのがインプットされているから、懼れることはありません。しかし、リアルは違います。今日初めて話した話が面白いと思ってくれても、それがもし明日だったら面白いと思ってくれないこともあるのですから。
これは経験を積んでも積んでも予想が難しいことで、人とたくさん接して「なにか」を得るしかないのでしょう。人の気持ちを推し量れる「なにか」を。そして人の気持ちを推し量れると思えた慢心も、すれ違いにつながっていくのですから。
まとめ
話がかなり逸れてしまいましたが、最後に言いたいことをまとめると、「ゲームは楽しいが、それを深く楽しみすぎると他のものに影響が出る」ということを言いたかったのです。
それを分かって諦めるのではなく、それをふまえて楽しむのが、ゲームをする上での心構えではないでしょうか。
ゲームの優先度は低くするに越したことはありません。人との触れ合いを大切にするために。
考察
論旨はおいておいて、ここまでゲームについてかける熱量を褒めてあげてください。今はここまでゲームについて語る情熱はないです。
今の私はゲームについて「みんなで楽しく遊ぶ分にはとてもいいものだ」と思っています。ゲーム内の勝ち負けよりも、ゲーム自体を楽しんだもの勝ちだと思うんですよね。気持ちの切り替えとか、短時間で幸福感を得られるから。
たまーに子どもが寝てから妻とPS4でサクッと遊ぶことがあるのですが、とてもいいコミュニケーションがとれます。クリアできれば協力して事に当たれた達成感が得られるし、クリアできなくてもなにか損をするわけでもないし。いずれにせよ「楽しかったね!」で終われるのがいいなと。
そんな風に楽しめるのも大人になったからなのでしょうね。昔は朝起きてから寝るまでずっとゲームをしていることもありましたが、今は1時間もやったら飽きるし(そこまでハマる要素のあるゲームを意識的に避けているせいもあるかもしれません)。